まず↓が、本記事をギュッと短くしたまとめです。
本記事の短いまとめ
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瞑想には不満足感をなくす効果がある。
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具体的には「うまくいかなくても気にしなくなる」といったようなこと。
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不満足感がなくなっても、それにともなって満足感がなくなるわけではない。
それでは具体的に見ていきましょう。
瞑想の「苦」は「不満足」という意味
仏教の目的は「苦」をなくすことだと言われています。
この「苦」って、もともとはdukkhaという言葉を和訳したものなんですよね。
しかしこのdukkha、英語ではしばしばunsatisfactorinessという訳が用いられるようです。
unsatisfactoriness、つまり「不満足」です↓
dukkhaという言葉を訳す時、現在の英訳では、しばしばunsatisfactorinessという単語が使われる。
日本語に訳せば「不満足」ということになるが、これはdukkhaのニュアンスを正しく汲み取った適訳だと思う。
私も「不満足」は適訳だと思います。
自分の体験的にもそうですし、仏教や瞑想をあまり知らない人にも分かりやすいですよね。
友人にたまにこの話をすると、こんな返答が返ってくることが多いです。
「あーなるほど。『苦』って苦しみだと思ってたから、苦しみなんてなくなるわけないのにと思ってた。不満足と言われると、なんとなく説得力あるかも」
不満足は「こだわらない」
では「不満足」をもっと掘り下げてみます。
「不満足感がなくなる」って、具体的にはどういうことなのでしょう。
私の知る限りで恐縮ですが、専門家による解説の中で分かりやすいものをピックアップしてみました↓
私がもう一つ常々言うのは、「瞑想すると上手くいくのではなくて、瞑想すると上手くいかなくても気にならなくなるのだ」ということですね。
仏教における苦とは、身体的・精神的な苦痛よりも範囲が広く、不満足だと考えられています。
心地悪い体験をしている時はいうまでもなく(嫌悪)、心地良い体験をしている時にも、例えば美味しいものを食べている時でも、もっと食べたい、もうなくなってしまう、また食べたいといった感じで(渇望)、常に不満足が生じています。
ゴータマ・ブッダ的には「それって結構騒々しいよね?それが苦なんだよ」というわけです。
そうなんですよね。
不満足って、決してマイナスの体験のときばかりではないのです。
生物学的にも、人間の快楽って長く続かないようになっているのだそうです。
まあ、そりゃそうですよね。
もし快楽がずっと続くように人間が設計されているとしたら、ここまで人類が繁栄することはなかったでしょう。
不満足感がなくれば、満足感もなくなる?
「でも不満足感が減ったら同時に満足感も減って、なんか仙人みたいな感じになるんじゃない?それは味気なさすぎてイヤかも。。」
というような意見を耳にすることがあります。
しかし私の体験から言えば、不満足感の減少と満足感はあまりリンクしないように思います。
まあもっとも、刺激的な快楽みたいなものは減るような気がしますが。
「一般的な満足不満足という尺度から離れる」という感覚の方が、より正確なのかもしれません。
ちなみに。
少し話がズレますが、満足不満足で探していたら「ハーズバーグの2要因理論」というものを見つけました。
満足と不満足の関係は、私たちが思っているような1セットのものではなく、それぞれ独立した軸になっているという理論です↓
ハーツバーグは、満足と不満足は1本の軸上を移動する連続体ではなく、それぞれが独立した軸であると考えます。
どういうことかというと、「満足」の軸では、満たされたときには満足感をもたらしますが、満たされない場合でも不満足感を引き起こすことはありません。
この「満足-満足でない(満足ゼロ)」に関わる要因を、ハーツバーグは動機づけ要因(モチベーター)と名づけました。
一方、「不満足」の軸では、満たされないときには不満足感をもたらしますが、満たされても満足感は生まれません。
この「不満足-不満足でない(不満足ゼロ)」に関わる要因は衛生要因(ハイジーン・ファクター)と名づけられました。
まとめ
「仏教は苦をなくすためのもの」というのはよく知られているが、実は「苦」は苦しみというより不満足という訳の方が適切という声がある。
実際私の体験からしても、不満足の方がシックリくる。
不満足感は、例えば「うまくいかなくても気にしなくなる」といったようなもの。
「不満足感が減れば、満足感も減ってしまうのでは」という声もあるが、その心配はなさそう。
しかし刺激的な快楽感は薄くなってしまう。
以上です。
なお「他の瞑想の効果も知りたい」という方は、↓をご覧くださいませ。
最後までご覧くださいまして、誠にありがとうございました。