まず↓が、本記事をギュッと短くしたまとめです。
本記事の短いまとめ
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慈悲のやり方はとてもシンプル。慈悲の言葉を念じるだけ。
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でもやり方を間違えて、自我を増幅させてしまう人がいるので注意。正しく行えば、「私」という感覚は薄くなっていく。
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慈悲の瞑想はマインドコントロールと似ている。なので合わない人も少なくない。合わない人は慈悲の心になろうとするのではなく、慈悲の身体になろうとする方がオススメ。
それでは具体的に見ていきましょう。
慈悲の瞑想のやり方
慈悲の瞑想のやり方は、いたってシンプルです。
慈悲の言葉を念じるだけですから(慈悲の瞑想の言葉は↓に記載しております)。
声に出しても良いし、心に思うだけでもかまいません。
時間も特に問いません。
普段の生活の中で、空いた時間に行えば良いかと思います。
正しい姿勢というのも特にはありません。
リラックスして、落ち着けるような感じであればOKです。
ということで、慈悲の瞑想の言葉は↓です。
私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光が現れますように
私は幸せでありますように
私の親しい生命が幸せでありますように
私の親しい生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい生命の願いごとが叶えられますように
私の親しい生命にも悟りの光が現れますように
私の親しい生命が幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
私の嫌いな生命も幸せでありますように
私の嫌いな生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな生命の願いごとが叶えられますように
私の嫌いな生命にも悟りの光が現れますように
私を嫌っている生命も幸せでありますように
私を嫌っている生命の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている生命の願いごとが叶えられますように
私を嫌っている生命にも悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
【気をつけるポイント】自我の増長に注意
↑に書いたとおり、慈悲の瞑想のやり方はシンプルです。
しかしやり方を間違えると、逆効果になってしまうことがあります。
慈悲の瞑想のやり方が間違っていない場合、「私」という自我は消えていく方向になります。
でも慈悲の瞑想を行えば行うほど、自我が増長してしまう人がいます。
「俺は慈しみの心を持つことができているんだ!」みたいな形で。
特別感を持ってしまうのです。
ですので慈悲の瞑想を行う際、この「私」に対する感覚は注意してみておいた方が良いでしょう。
スリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)のスマナサーラ長老も、実際にこのようにおっしゃっています↓
今言えるのは、自我の錯覚が、もしかすると強化されるとすごく危険になるんですね。
慈悲の瞑想が正しく行く場合には、自我というものが消えていくんです。
これはセルフ・マインドコントロール・バージョンだからね。
どうせもともと自我の錯覚があるんだから、自我の錯覚が出て来てマインドコントロールするようになっちゃうと、たとえ言葉が慈悲であっても、エゴイストになっちゃうようなら、これはもう、恐ろしい副作用になっちゃうんですね。
正しく成長する場合は、「私、私」「自分だけ」というのが薄くなります。
それだけチェックした方がいいです。
イマイチうまくいかない方は「慈悲の瞑想の言葉を念ずることによって生じる身体感覚や感情、思考を細かく観る」のが1つのコツです。
マインドフルネス瞑想(ヴィパッサナー瞑想)と組み合わせるというやり方ですね↓
ただ単にフレーズを頭の中で機械的に繰り返すのではなく、フレーズによって変化する身体感覚、感情、 思考を認識し、受容し、よく調べ、自分自身と同一視しないことが重要とされる。
慈悲の瞑想が合わない人は、慈悲の「身体」を目指すのがオススメ
「慈悲の瞑想が合わない」という人がいます。
何を隠そう私もそうだったのですが、調べてみると私のように「慈悲の瞑想は、ちょっとウサン臭い」と思う人が少なくないようです。
しかしウサン臭いと思うのも、ある意味当然といえば当然なのです。
なぜなら慈悲の瞑想は、「マインドコントロール」だからです。
先ほどの引用文↑でスマナサーラ長老もおっしゃっていたように、慈悲の瞑想を「素直」にやると、マインドコントロール感が色濃くでてしまうのですよね。
なのでそういったものに敏感というか、拒否感を覚える方は、身構えてしまって心が入りにくいように思います。
では身構えてしまう人は、どうすれば良いか。
結論を先に言うと「いきなり慈悲の心になろうとするのではなく、まずは慈悲の身体になろうとする」のがオススメです。
具体的には、他者を触覚でイメージするよう心がけます。
もっと具体的に言うと、慈悲の心を向ける相手を想像したときに、実際に彼(女)に優しく触れたときの感覚をできるだけ細かくイメージします。
(人はものを一目見ただけで、それがどのような手触りをしているか、詳細に判断する能力を持っています)
普段私たちは、主に視覚で他者をとらえていますが、他者のとらえ方を根本的に変えてみるということです。
そうすると、例えばあなたが嫌いな相手であっても「あっ、彼(女)も自分と同じなんだ」という気持ちになりやすくなります。
もっとできる方は、手でさわった感じではなく、目(顔)で直接相手に優しく触れるようにイメージするのもオススメです。
犬が飼い主に、顔ごとこすりつける愛情表現がありますよね。
そこまで生々しくする必要はありませんが、イメージとしてはそんな感じです。
顔で触れるように相手をイメージすると、慈しみの感情が生まれやすくなります。
と自信満々に語りましたが、コレ↑はあくまで私の体験にすぎません。
ですので、いまいち納得ができないという方もいらっしゃるかと思います。
ということで、ある程度科学的にもご説明させてください。
ミラータッチ共感覚という面白い現象があります。
ミラータッチ共感覚って何?
簡単に言うと「他人がさわられているのに、自分がさわられているように感じること」です↓
第三者が対象者に触れているのを見て自分が対象者に触れているのと同じ触覚が生じたり、第三者が対象者に触れられているのを見て自分が対象者に触れられているのと同じ触覚が生じたりする共感覚は、特にミラータッチ共感覚と呼ばれる。
慈悲の瞑想の効果の1つに「相手を他人と見ずに、自分として投影できる」というのがありますが、ミラータッチ共感覚はまさに感覚レベルでそれを実現しているということになります↓
幸福になるためには、人生で成功するためには、平和で無事で争いがなく、堂々と美しく生きていくためには、ただ「やさしい心」さえ作ればいいのです。
それには、人を見たら自分とみる、相手を「他人」と見ずに「自分」としてプロジェクション(投影)してみることです。
もちろんミラータッチ共感覚は、ほとんどの人が持っていないものです。
しかし一方で、ミラータッチ共感覚は錯覚ではないかという研究結果もあります↓
イギリスの神経科学者チームが、「ミラータッチ共感覚」の所有者10人を対象に行なった研究で、共感覚者はそれ以外の人に比べて、実際の感覚と「ミラー」感覚を混同しやすいことがわかった。
この結果は、共感覚が、「ミラーシステム」(自分自身の行為によっても、他者の同じ行為を見ることによっても、同じように活性化するニューロンの集まり)の活動によって引き起こされるという説を裏付けるものだ。
もしこの↑研究結果が正しいのであれば、あなたがミラータッチ共感覚の持ち主でなかったとしても、感覚レベルで「相手を他人と見ずに、自分として投影できる」可能性が出てきます。
この流れで次に見てみたいのが、ラバーハンド錯覚です。
ラバーハンド錯覚とは、簡単に言うと「自分の手じゃないものを自分の手のように感じる錯覚」を言います。
百聞は一見に如かず。
短い動画なのですぐ見れると思います↓
ラバーハンド錯覚には「身体所有感」というものが関わっています。
身体所有感というのは、目の前の自分の手を見て「これは自分の手だ」と感じることです。
そして身体所有感は、視覚と体性感覚から成り立っています↓
普段、他者をイメージするときって、主に視覚を使っていますよね。
なのでそこに触覚(触覚は体性感覚に含まれます)を足してやると良いということです。
長くなってしまいましたが、私が触覚をコツに挙げたのは、自分の体験だけではなくこのような理由もあってのことでございます。
先ほども申し上げたとおり、私は慈悲の瞑想に対してあまり良い印象を持っていませんでした。
しかし「触覚のコツ」に気づいてからは、慈悲の瞑想がとてもシックリくるようになりました。
ですので「慈悲の瞑想が肌に合わない」という方は、いきなり慈悲の心になろうとするのではなく、まずは身体(感覚)レベルでの慈悲を目指してみるのもアリなのではないかと思う次第です。
以上です。
なお「他の瞑想のやり方も知りたい」という方は、↓をご覧くださいませ。
「慈悲の瞑想についてもっと知りたい」という方は、↓をご覧くださいませ。
最後までご覧くださいまして、誠にありがとうございました。